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のり推進協
のりの歴史History
古くから食されてきた「のり」
のり推進協海苔が登場する最古の文献は、日本で最初の法律書である『大宝律令』(701年)とされています。残念ながら『大宝律令』は現存しませんが、それを改編したとされている『養老律令』(757年)に、朝廷への年貢(租税)の対象として「紫菜(ムラサキノリ)」の記載があります。 平安中期の律令の施行細則『延喜式』(927年)にも海苔は租税の対象として登場します。『延喜式』は朝廷の運営マニュアルにあたる書で、その中に、公式の宴会や、諸節句の食材として「紫菜」が汁物などに使われていた事も記されています。
海苔製法の原型が確立された江戸時代
江戸時代、海苔が好物だった徳川家康に新鮮な海苔を献上するために、品川・大森を中心とする東京湾で養殖がはじまりました。幕府は献上された海苔を市場で売り、財源としたようです。これをきっかけに海苔は江戸の特産品として、庶民にも親しまれるようになっていきます。江戸時代中頃には、すのこですく四角い「板海苔」が登場し、増産が進みました。
芭蕉の句には海苔について歌ったものがあります。
「海苔汁の手際見せけり浅黄椀」貞享元年(1684年)頃
「衰えや歯に喰ひあてし海苔の砂」元禄4年(1691年)のり推進協
「焼き海苔」の登場
のり推進協焼き海苔を創案したのは大森の三浦屋田中孫左衛門です。弘化元年(1844年)にガラス瓶に詰めて販売していました。その後、山形屋により「貯蔵(かこい)海苔」の名で売り出され、海軍に買上げられ、その味と保存性が評判となり、各社でも扱われるようになっていきます。
「焼き海苔」と称されるようになったのは、明治中頃だとされています。
ドゥルー女史による養殖技術の革新
のり推進協イギリスのドゥルー女史が海苔の糸状体を発見したのは昭和24年(1949年)のことです。この発見が、それまで不明だった海苔のライフサイクルの解明につながり、養殖技術は飛躍的な発展を遂げる事になります。現在では、年々生産量が増加し、安定した生産が可能となりました。